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No.001

黒楽茶碗 Kuroraku Chawan

PLACE 京都府京都市 TYPE 陶器 FEATURE
PERIOD 安土桃山時代〜現代 PRODUCT 茶碗など
  1. 1.千利休の侘茶の美学を象徴する茶道用の茶碗
  2. 2.京都の陶工樂長次郎が製作したのが始まり
  3. 3.釉薬によって生み出された深い黒が特徴
FOCUS 安土桃山時代 USAGE 高級茶道具・美術品として
  • 安土桃山
  • 江 戸
  • 明 治
  • 大 正
  • 昭 和
  • 平 成

長次郎の楽茶碗は、利休の創意により作られた作品で、日常生活の容器としては作られていません。轆轤(ろくろ)を用いない手びねり成形で、窯も市中の家屋内に築かれていました。また素地は聚楽第建設の際に余った土を用い、それほど土を選ばないものでした。長次郎の茶碗には赤楽茶碗と黒楽茶碗がありますが、黒楽茶碗は加茂川石を砕いて作った黒釉を用い、焼成時に釉が溶けた時点で窯から引き出す技法が用いられます。

大阪府大阪市(大阪城)

MODEL 目利きプロデューサーモデル

茶道の革新を図った千利休プロデュースの茶器

黒樂茶碗は、天下一名人・千利休の目利きによりプロデュースされた茶道の茶碗である。利休は、名高い中国伝来の貴重な茶器がなくても、数寄の世界に親しめる侘び茶を極限まで追い求め、黒樂茶碗を生み出した。もとは手づくりの少数生産品であったが、徐々にひとつのジャンルとして確立した「樂茶碗」は、現在でも広く茶道界で用いられている。

SOCIETY 戦乱の世、新たな美が出現安土桃山時代 武将も職人も目指した 天下一 引き算の美学 侘び story 利休以前の侘び茶の成立 story 目利きプロデューサー利休の登場 story 「黒」を生み出した名工・樂長次郎 story 堺の商人と侘び茶の発展 コミュニティ発生 座の文化 story 連歌から茶の湯へ 政治と結びついた茶の湯 茶の湯御政道
PROSESS ROOT

工芸クロニクル CRAFT CHRONICL

戦国 武野紹鷗が侘び茶を成立させる

1502年(文亀2) 侘び茶を起こした村田珠光没
武野紹鷗生まれる
1522年(大永2) 千宗易(利休)生まれる
1525年(大永5) 紹鷗、堺から上洛。歌学を学ぶ
1532年(天文1) 紹鷗、大徳寺の古岳宗亘のもとで出家剃髪
1533年(天文2) 紹鷗、奈良の松屋で三名物を実見し、和歌の理念を茶の湯に移すことを工夫する
1537年(天文6) 紹鷗生活の拠点を堺に移す
1543年(天文12) 鉄砲伝来
1555年(弘治元) 紹鷗没

安土桃山 秀吉が天下統一、利休が茶頭に

1568年(永禄11) 織田信長上洛
利休、この頃、信長の茶頭になる
1573年(元亀4) 室町幕府滅亡
樂長次郎、瓦職人として京都で働いていた。後に利休に出会い、樂茶碗を制作する
1574年(天正2) 長次郎、現存する最古の作品『二彩獅子像』を制作
1579年(天正7) この頃、長次郎が樂茶碗の制作を開始
1582年(天正10) 本能寺の変。信長没
宗易、待庵をつくる
1583年(天正11) 豊臣秀吉、大坂城の建築に着手
1585年(天正13) 宗易、正親町天皇から「利休」号を賜る
禁中献茶
1586年(天正14) 秀吉、黄金の茶室を使う
茶会記に「宗易形ノ茶ワン」(長次郎の樂茶碗と思われる)が初めて登場。秀吉や利休が頻繁に利用していたと推測される
1587年(天正15) 北野大茶湯、開催
1589(天正17) 樂長次郎没
長次郎没後も樂家は続く。2代目吉左衛門が樂家の基礎を築き、以後この名を継承
1591年(天正19) 利休切腹

昭和〜平成 現在まで繋がる、樂家の遺伝子

1981年(昭56) 樂家、15代吉左衞門襲名
2007年(平19) 滋賀県佐川美術館に「樂吉左衞門館」が会館。15代は建築設計創案・監修を行う

進化する伝統 15代目樂吉左衛門の前衛性

黒樂茶碗「秋菊」樂美術館所蔵
樂家は今も続き、現在の当主15代吉左衛門は伝統を打ち破るような斬新な造形が魅力。京都上京区には430年続く窯場を持ち、その横に樂美術館を併設。また滋賀・佐川美術館にも樂吉左衞門館ができ、15代の現在進行形の作品が展示されている。

工芸三冊屋 利休 meets 長次郎の3冊

『秀吉と利休』野上弥生子(新潮社 1964)
『へうげもの』山田芳裕(講談社 2008)
『楽茶碗 茶道具の世界4』樂吉左衞門責任編集(淡交社2000)

工芸のおひれ CRAFTS OF THE TAIL FIN

茶碗=格の低いものだった!?

茶道の碗には、鎌倉時代から建盞(曜変天目、油滴天目)、天目、茶碗という格付けが定まっていて、茶碗とはあくまで格の低いその他諸々を意味する言葉だった。

樂焼きは当時は「今焼」と呼ばれていた!

利休や長次郎が生きていた時代は、まだ「樂焼」という名はなく、今焼かれた斬新な茶碗、新しい茶碗、という意味で「今焼」と呼称されていた。長次郎の樂茶碗は、聚楽第に屋敷をもつ千利休の手を経て世に出されたことから、秀吉に聚楽第の「樂」の印字を賜り、樂焼と称されるようになった。

樂茶碗が注目されたのは「吸い茶」のおかげ

1586(天正14)年ごろ、利休が濃茶を飲み回す「吸い茶」を提唱し、濃茶に使う茶碗として、高麗茶碗・瀬戸茶碗・今焼茶碗(樂茶碗)が主役として躍り出てきた。

悪条件こそ黒樂の光沢無し羊羹色の秘密

長次郎の黒樂茶碗は、光沢がない羊羹色である。これは瓦窯に準じた窯のうえ鞴の調子が悪く、さらに裸のまま焼いたので肌に煙が当たったり、灰が降りかかったためである。

長次郎きまじめ。利休の注文に忠実、誠実

長次郎の茶碗は手癖はあるが、7つの形に限られており、2代目常慶以降のものに比べると個性がないと言われる。これは利休の書いた図面か紙型を手本にしていたからだと考えられる。

樂長次郎「二彩獅子像」
樂美術館 所蔵(重要文化財)

二条城の獅子像も長次郎作!

二条城から出土した獅子像には「天正二年(1574)長次郎作」と書かれている。赤樂茶碗と同質の土と釉であり、長次郎は赤樂の技術をすでに持っていたと思われる。これは長次郎の残した最も古い作品でもある。