
大島紬は、奄美大島を原産地にする着尺地で、絣織りのものが多く、優雅な光沢を持ち、しなやかで軽く、しわになりにくいという特徴があります。手紡ぎの糸を、奄美に生息する「テーチ木」(シャリンバイ)の煎汁液と鉄分を含む泥土でこげ茶色に発色させ、手織りで織るという伝統的技法が今日まで受け継がれています。生産拡大の中で、大正年間にはほぼ全ての製品が紬糸ではなく絹糸で作られるようになりました。
![]() |
|
---|---|
龍郷柄(たつごうがら) | 大島紬生産工場観光庭園 大島紬村 |
-
MODEL
20世紀に入り、工芸の流通は劇的に変化した。その中心を担うのが百貨店という存在であり、大島紬も百貨店で取り扱われた商品だった。
多品種少量生産の高級呉服の販売には、分業化された広域のネットワークを持つことが必要であるが、集積地問屋や買継商、仲買人が介在することで、呉服店や百貨店への流通網が整備された。奄美大島は、鹿児島と沖縄の中間に位置。鹿児島 からフェリーで約11時間かかる SOCIETY
大島紬
親子3代にわたって着られると言われるほど丈夫に織り上げらる大島紬。伝統的なテーチ木染めと泥染めによって染色された絹糸で織り上げられ、カラスの濡れ羽色と例えられる深い輝きを放つシックな紬。
- ・絣(かすり)織りが多い
- ・優雅な光沢を持つ
- ・しなやかで軽い
- ・シワになりにくい
ROOT
PROCESS
奄美大島で養殖し、つくった絹糸
-
- 1649年(慶安2)
- 薩摩藩より御触書が出る。百姓の衣類は布木綿に限られる
- 1667年(寛文7)
- 薩摩藩主が「絹織物着用禁止令」交付
- 1720年(享保5)
- 紬着用禁止令
- 1877年(明10)
- 大島紬の自由流通開始
大阪における市場取引開始 - 1880年(明13)
- 鹿児島へ技術導入、生産開始
- 1890年(明23)
- 第三回内国勧業博覧会へ出品。好評を得る
- 1901年(明34)
- 大島紬同業組合設立、製品検査実施
この頃、締め機による精巧な絣加工の実現 - 1903年(明36)
- 第五回内国勧業博覧会で大島紬が宮内省買い上げとなる
- 1904年(明37)
- 三越呉服店が「デパートメントストア宣言」をし、百貨店が登場。流通が激変する
- 1923年(大12)
- 朝鮮での貿易品展覧会
- 1935年(昭10)
- 染織指導所で大島紬のネクタイ試作、翌年商品化
- 1955年(昭和30)
- 白地大島紬、色大島紬が研究開発される
- 1962年(昭37)
- テーチ木染色廃液の再生利用法が発明
- 1973年(昭48)
- 白地泥染大島紬が研究開発される
- 1975年(昭50)
- 国の伝統的工芸品に指定される
- 1976年(昭51)
- 生産高のピークを迎える(70万3000反)
現在では、 着物だけでなくネクタイやコースターやブックカバーなどさまざまな小物へも展開されている。
『日本のファッション 明治・大正・昭和・平成』城 一夫(青幻舎 2007)
『明治洋食事始め―とんかつの誕生』岡田 哲(講談社 2012)
『間取り百年―生活の知恵に学ぶ』吉田桂二(彰国社 2004) -
奄美諸島は鹿児島市から380〜580kmの南西海上に点在し、「道の島」とも呼ばれる。
「道の島」は南方諸国、大陸諸国との主要な交通路であり、7・8世紀には遣唐使の寄港するところだった。絹等が日本で租税にされたのも645年の大化の改新後のことだった。奄美の人々は薩摩藩から紬の着用を禁止された時代があった。代官の調べを受けた農家の主婦が自分の着物をそっと泥田に隠して後で取り出して洗ったことが泥染めの始まりとも言われている。
模様は時代の変遷や技術革新によって多種多様に移り変わってきたが、モチーフは自然の草花が主体である。ハブの背中やソテツをモチーフにした龍郷柄や、幾何学模様もある。
本場奄美大島紬協同組合は最近では「本場奄美大島紬」という商標登録も行い、ブランド管理およびブランド展開に取り組んでいる。
「奄美」の地名に、国内の他産地および海外の織物との差別化を図っている。泥染めというのは、黒く染めるひとつの方法であるが、現在では、化学染料を使って黒く染めたり、いろいろな色に染めたりしている。従って白大島は化学染料のものであり、大島紬の生産の大部分は、色大島といわれる化学染料染めである
初代はお母さん、お母さんの着た大島紬を裏返して、2代目は娘さん。3代目はお孫さん、そして、赤ちゃんのおくるみに直す。これが大島紬の定石。裏表どちらでも着ることができ、3代先、150年あるいは200年も着られる丈夫な織物と言われている。
それぞれの柄の大きさは玉(たま)で数える。玉の数が少ない大柄のものが若者向けとなる。
左:6玉・小柄/中央:4玉・中柄/右:2玉・大柄