工芸クロニクル

小川和紙 Ogawa Washi

関東甲信越No.001
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昔は武蔵紙と言われ、武蔵国一帯で作られていました。やがて現在の埼玉県小川町付近に集中するようになって小川紙と名付けられました。特徴は、原料はすべて楮(こうぞ)を使い、未晒しであることです。楮の繊維を傷めないため、紙質も堅牢で、板干しにするため、紙には美しい木目がうつり、独特の風合いが生まれます。

小川和紙を使った照明 埼玉県比企郡小川町
成り立ち 工芸ストーリー

MODEL

江戸問屋モデル 江戸の商い・学問・芸術を支えた  伝統の「紙技」

江戸時代に入り、流通を担う問屋が登場し、江戸では数多くの工芸が売買されるようになる。和紙の主 産地の多くは西日本にあり、船便により江戸に送られていたが、江戸十組問屋が江戸近郊に産地を求め 、その代表的なものが武蔵国(埼玉県) の小川和紙だった。紙は江戸の出版をはじめとした消費文化の 波に乗り、需要の増大に対応することでおおいに栄えることになった。

『紙漉き工程図会』宮崎元育より
木桶による大がかりな楮蒸しの様子。木桶の下には平釡があり、釡の上に割竹を敷き、楮の束を立てて蒸す。2メートルほどの大型のものもある。

SOCIETY

大衆文化が花盛り江戸中期

SUPPORTER

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PRODUCER  有力商人が集結 江戸十組問屋

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CREATOR 小川周辺の農民

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TASTE / FORM

細川紙

和歌山県細川町から紙漉き技術を移したことから小川紙の代表的なものを「細川紙」と呼ぶ。楮を原料とした伝統的な手漉き和紙で、未晒しの純楮紙ならではの強靭さと素朴ながらつややかな光沢を持つ。

特徴
  • ・原料はすべて楮を用いた未晒し
  • ・表面に美しい木目が映る
  • ・紙質は堅牢
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DISTRIBUTOR 江戸十組問屋

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CUSTOMER / USAGE 大福帳 諸大名 庶民的出版物 紙衣など衣類

ROOT

小川町が天領だった江戸初期、 徳川親藩の紀伊国(現・和歌山県細川村)から 奉書紙の紙漉き技術を移した

PROCESS

素材

地元産の楮(こうぞ)を使用。

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略年表 工芸クロニクル

<飛鳥〜平安>1300年の和紙の始まり

673年頃
この頃創建の慈光寺(武蔵国)で写経などが盛んに行われ、大量の紙が使われた
927年(延長5)
左大臣藤原忠平らにより「延喜式」が編集され、武蔵国の貢納物のひとつとして紙が挙げられている

<江戸> 江戸の発展、和紙の隆盛

1602年(慶長7)
大野村の年貢割り振り状に紙船役のもっとも古い記述がみえる
1668年(寛文8)
小川紙に、代官検地により紙漉船役永・紙売出冥加金を課せられる
1694年(元禄7)
江戸十組問屋結成し、紙問屋も入る
1750年〜1759年
京都・大坂・江戸の出版は約6割増
1751年〜1764年
『宝暦中紙問屋控』に産物のひとつとして武蔵国の細川紙が記されている
1767年(明和4)
紙の生産量増 規格が乱れ、紙の値段下落
1776年(安永5)
蔦屋重三郎、北尾重政・勝川春章『青楼美人合姿鏡』を刊行
1813年(文化10)
江戸十組問屋紙店組より上古寺村に組外に紙の直売をしないように通達がある
経世家・佐藤信淵は『経済要録』で小川も紙産地として豊かになってきたと紹介
1817年(文化14)
紙の値段が下がり紙漉き家業が行き詰まる
秩父・比企・男衾郡18ヶ村の名主は江戸十組問屋を裁判に訴える取り決めを結ぶ
1818年(文化15)
3郡15ヶ村の名主らが公儀に出訴、敗訴
1804年〜1830年
『新編武蔵風土記稿』によると、平村、腰越村など数村で細川紙を漉く
1838年(天保9)
小川村を除く12村において紙屑商、質屋を営むもの25軒に達する
1841年(天保12)
天保の改革により十組問屋の権利が剥脱され、再び自由売買制になるが水野忠邦の失脚とともに復活する

<昭和〜平成> ユネスコの無形文化遺産へ

1978年(昭和53)
細川紙技術者協会が国の重要無形文化財として指定
2014年(平成25)
細川紙が「和紙:日本の手漉和紙技術」として、ユネスコ無形文化遺産への登録

進化する伝統 細川紙がファッション界に

2015年2月、小川町において、ユネスコ無形文化遺産登録を祝う記念行事が催され、細川紙でつくった洋服のファッションショーが行われた。服飾デザイナーの岡嶋多紀が細川紙でつくった。

工芸三冊屋 江戸のモノとコトの流通を紐解く3冊

『江戸の想像力―18 世紀のメディアと表徴』田中優子(筑摩書房 1986)
『蔦重の教え』車 浮代(飛鳥新社 2014)
『流通列島の誕生』林 玲子・大石慎三郎(講談社 1995)

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おまけ 工芸のおひれ

1300年前から続く和紙

武蔵国では古くから紙が漉かれ、『図書寮解』の774(宝亀5)年の項には「武蔵紙480張、筆50管」という記録がある。また奈良時代初期に都幾川村に慈光寺が建てられ、写経用紙の需要があり、製紙技術も発達したと思われる。

ぴっかり千両、大儲け

紙漉業は農間余業であり、冬の寒い日に朝5時から夜10時過ぎまで仕事をしなければならず、決して楽ではなかった。しかし「ぴっかり千両」という言葉が残っているように、最盛期の晴天の日には、1日に多くの儲けがあったという。

江戸のTSUTAYA

1780(安永9)年、蔦屋重三郎は初めて黄表紙に進出した。黄表紙とは草双紙の一種で従来の子供向けから大人向けの読み物として洒落と風刺を織り交ぜたもので、朋誠堂喜三二『竜都四国噂』、山東京伝『夜野中狐物』、大田南畝序『虚言八百万八伝』などを刊行した。

火事のときには井戸に投げる!?

小川和紙の特徴のひとつは耐久性で、「火事の時、細川紙でつくった台帳を井戸に投げ入れておくと、家は焼けても帳面は残った」という言い伝えもある。

紙漉きは借金返済のため!?

新規に紙漉き家業を始める者は問屋に前借りしていた。借金返済に追われながら問屋に買い叩かれる農民も少なくなかったらしい。紙漉き唄にこんな節がある。
〽いやだ、いやだよ、紙漉きはいやだ 夜詰め早起き水仕事 すいた儲けはかんだのように みんな問屋にしぼられる

江戸の地紙うりはイケメン!?

江戸時代にはさまざまな和紙製品を売り歩く商売があった。扇の地紙売りは「地紙、地紙」とうたい歩き、注文があるとそこで骨を入れ、折って仕上げた。紙売屋は洒落た着物に足袋雪駄、手には大きな加賀骨扇を持って、下女たちに人気があった。いらぬ扇を買った人も多いという。

江戸の地紙売り 国立国会図書館蔵『盲文画話』より

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