
岩手を代表する漆器のひとつ秀衡椀は、椀の上部のふっくらとしたシルエットと高い高台が特徴。「源氏雲」と呼ばれる漆の雲に、金箔の「有職菱紋(ゆうそくひしもん)」という菱型の加飾を施し、草花をあしらうデザインは秀衡文様と呼ばれています。昭和に入り、民芸の父と言われる柳宗悦らによる調査が行われ、秀衡椀が秀衡塗として復元され、現在のかたちになりました。大中小の三つの椀が一つのセットになった三重椀のスタイルがあるのも特徴です。
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秀衡塗の重箱 | 岩手県西磐井郡平泉町 |
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MODEL
秀衡塗は、平安末期の12世紀に平泉の地に栄華を極めた奥州藤原氏にその起源があるといわれる。
第3代藤原秀衡が中尊寺金色堂の造営のために京都から招来した職人に、平泉特産の漆と金をふんだんに使った豪華な椀をつくらせた。この時代、工芸生産の「職人」が出現し、権力者の依頼によって制作するというビジネスモデルが始まった。藤原秀衡と源義経の対面。「源義経平泉館にて秀衡親子に対面之図」東京都立中央図書館東京試料文庫 SOCIETY
秀衡椀「椿文」毛越寺蔵
現存する古代秀衡椀の中でも最も古く、優れたものと言われている。秀衡模様の雲型は朱で縁どり、中に紅柄で筋を細かくつけている。
- ・ふっくらとしたシルエット
- ・秀衡文様(源氏雲+有職菱文)
- ・高い高台
- ・日用の道具として
- ・外交手段・引き出物として
ROOT
PROCESS
素材はすべて地元で調達。木材はブナ、ケヤキ、トチなどの広葉樹。
漆は平泉近郊で採取し、金は岩手の県南など近くの山脈で採れた。漆
木材
金
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- 1087年(応徳4)
- 清衡、清原氏最後の残存者として奥6郡・山北3郡を領有し、実父の藤原姓を名乗る奥州藤原氏の成立
- 1124年(応徳5)
- 金色堂落成。平泉の黄金文化の隆盛
- 1128年(大治3)
- 奥州藤原氏初代清衡の死後、異母兄弟との争いの末、基衡が第2代に
- 1157年(保元2)
- この頃、父死去により秀衡が家督を相続
- 1187年(文治3)
- 源義経、頼朝の追手を逃れ再び平泉に入る
秀衡没 - 1189年(文治5)
- 源義経、自害。泰衡の代で藤原氏滅亡。漆器職人たちは、衣川の奥地「増沢地区」に落ち延びる
- 1868年(明治1)
- 明治維新、幕藩体制が崩壊し南部藩による 漆工の禁制がなくなる
- 明治初期
- 秀衡塗の原型・増沢塗が成立
- 1879年(明治6)
- 黒川真頼『工芸志料』に秀衡椀の記述
明治政府、工芸を奨励 - 1938年(昭和13)
- 柳宗悦らによる「秀衡塗」の復興
- 1851年(昭和26)
- 中尊寺金色堂、文化財保護法で国宝建造物 第1号に指定
- 1955年(昭和30)〜60年(昭和35)
- 衣川ダムの建設、増沢地区から秀衡塗の生産地が移転する
- 1985年(昭和60)
- 秀衡塗が通商産業大臣指定伝統的工芸品に指定される
- 2011年(平成23)
- 平泉が世界文化遺産に登録される
2011年に平泉が世界文化遺産に登録され、秀衡塗もその奥州藤原氏の黄金文化を偲ばせる代表的な工芸品として、世界からの注目が高まっている。
現在でも岩手県の工房で盛んに製造が続けられ、秀衡椀1客で1万円強。重箱やこけしなどをあしらったデザインもある。 -
8世紀、奥州で金が産出していた証拠となる短歌を残していた。
「すめろぎ(天皇)の 御代栄えむと 東なる みちのく山に くがね(金)花咲く」維新後、南部藩による漆生産の統制がなくなると、越前漆器のお膝元の福井から越前衆という漆掻き職人が出稼ぎに来るようになる。
この時1本の漆の木から1年ですべての漆を採り尽くし伐採する「殺し掻き」と呼ばれる現行の方法が伝わった。中尊寺金色堂の須弥壇内には、秀衡をはじめ藤原氏4代のミイラ化した遺体と泰衡の首級も納められていた。
岩手県二戸市浄法寺町を中心に、八幡平市や盛岡市でも生産される。
8世紀前半に開山された浄法寺町御山(おやま)の天台寺の僧が、自家用に使用する漆器をつくったのが始まり。
1985(昭和60)年に伝統的工芸品の指定を受けている。貴族文化の平安時代、漆の大きな使用目的に烏帽子があった。
烏帽子に漆を塗る様子も残されている。身分の上下によって烏帽子にも非常に細かな分類があった。日本庶民生活史料集成 第30巻「諸職風俗図絵」(三一書房)より引用