工芸クロニクル

江戸切子 Edo Kiriko

関東甲信越No.002
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江戸切子は、江戸時代に生まれた技法で、「切子」とはカットガラスのことを指します。特徴は、表面をV字状に削りこむことで光の反射を生む気品のあるデザイン。西洋的なきらびやかさと日本の伝統的な文様の組み合わせにより生まれました。切子模様には矢来、魚々子、格子、籠目、麻の葉、菊つなぎなど十三種類の基本パターンがあり、その組み合わせで独特の趣きを表現します。

東京スカイツリーエレベーター 東京都品川区北品川
成り立ち 工芸ストーリー

MODEL

MODEL 殖産興業モデル 列強に追いつき追い越せ、和洋融合のカットガラス

江戸後期の豊かな町民文化の中から生まれた江戸切子だが、明治維新で大きな転換点を迎える。明治政府は西洋列強に追いつき追い越せの政策を打ち出し、殖産興業の一環として、伝統工芸の生産振興が始まる。江戸切子もそのひとつ。政府は品川硝子製造所を官営化し、イギリスからお雇い外国人を招くと同時に機械も導入。ウィーン万博出展を機に、海外輸出にも乗り出した。

品川硝子製造所
明治20年前後の工場の全景。横に鉄道が通っていた。

SOCIETY

開国後の激動の時代 明治前期

SUPPORTER PRODUCER 殖産興業政策で工芸を支援 明治政府

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CREATOR 品川硝子製造所

お雇い外国人 お雇い外国人としてカットガラスの技術を教えたエマヌエル・ホープトマン 吹き工 切子師 研磨工
※ウランガラス同好会
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TASTE/FORM

江戸切子

他にはない透明な素材で独特な模様のガラスは、嗜好性が高く、数寄者のたしなみの道具であった。

特徴
  • ・江戸~明治期のものは透明
  • ・ガラスは薄め
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DISTRIBUTOR ガラス店 工部省(政府)

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CUSTOMER/USAGE 裕福な庶民 内国勧業博覧会 おもてなしの道具として。 ガラスは豊かな町民文がある  大都市から浸透していった。国内産業の発展のため。

ROOT

18世紀後半に 長崎にもたらされたオランダのカットガラスを、 江戸のガラス問屋が真似たのが始まり

PROCESS

素材

江戸期は鉛分の多い素材でつくっていたため割れやすかったが、開国以後はガラス屑を大量輸入し、西洋と同じソーダガラスをつくれるように。

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略年表 工芸クロニクル

<江戸末期> 江戸の町民文化の中で誕生

1834年(天保5)
加賀屋久兵衛がガラス面に彫刻を施す これが江戸切子の始まりとされる
1853年(嘉永6)
黒船来航 加賀屋久兵衛、切子をペリーに納め、賞賛される

<明治前期> 官営工場で技術革新、生産増

1873年(明治6)
ウィーン万博に出展し好評
1876年(明治9)
工部省が品川硝子製造所を官営化
この頃「ガラス」という言葉が一般的に
1881年(明治14)
品川硝子が第2回内国勧業博覧会に食器を出展し入賞
カットガラス技師エマヌエル・ホープトマンが来日しカット技術を伝授
1885年(明治18)
経営不振のため政府が品川硝子製造所を払い下げ、民営化
品川硝子製造所の技術は後世に引き継がれた

<昭和> 戦後は外貨獲得の戦士に

1945年〜1951年(昭和20〜26)
戦後、産地の江東区一体は疲弊していたが、進駐していたGHQからのクリスタルガラス受注が増え、復興していく
1960年頃
高度経済成長期、生活の洋風化で需要増
1985年(昭和60)
東京都伝統工芸品に認定

進化する伝統 海外観光客や学生が体験工房に訪れる

進化する伝統 平泉の世界遺産効果で注目!

江戸切子の技術は震災や戦災の間も途絶えず継承され、現在はショールームや体験工房を中心に、江東区・墨田区の地域おこしのアイテムでもある。カットは今も手仕事で、職人の多くが品川硝子からの系譜を持つ。グラスひとつ1万円程。

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おまけ 工芸のおひれ

エマヌエル・ホープトマン、 たった1年で歴史に名を残す

イギリスから来たお雇い外国人ホープトマンは、イギリス・アイルラインドのカット技術を伝授し、日本のガラス製造に多大な功績を残したが、実は滞在期間はたった1年であった。

加賀屋久兵衛、ペリーに褒められる

1853(嘉永6)年の黒船来航時、江戸切子を始めたと言われれる江戸のガラス問屋・加賀屋久兵衛は切子瓶を献上し、その精巧な細工にペリーが驚いたという逸話が残っている。

ガラスという名称は明治維新以降から

実は「ガラス」が常用語になったのは明治維新後、品川硝子製造所の設立時から。江戸以前は瑠璃(ルリ)や玻璃(ハリ)、江戸期はびいどろやギヤマンと呼ばれていた。

切子の模様は組み合わせが命!

岩手県二戸市浄法寺町を中心に、八幡平市や盛岡市でも生産される。
8世紀前半に開山された浄法寺町御山(おやま)の天台寺の僧が、自家用に使用する漆器をつくったのが始まり。
1985(昭和60)年に伝統的工芸品の指定を受けている。

透明の江戸切子、色被せの薩摩切子

当時は無色のガラスが主流だった江戸切子に対し、薩摩切子は色被せをしていたのが大きな違い。ただ、現在は江戸切子も色被せしたものが主流になっている。薩摩切子は江戸末期に薩摩藩主の島津家が興した産業だが、薩英戦争によって工場が破損したせいで、たった20年で途絶え、1985(昭和60)年に復活するまで製造されていなかった。

品川硝子、民営化後はビール瓶を大量生産

1885(明治18)年の民営化後、品川硝子は横浜のキリンビールからの受注により、日本で初めての大量生産によるビール瓶製造に乗り出す。しかし他社との競合などにより経営不振になり、1892(明治25)年に解散した。

明治期のガラス産業は、大阪>東京だった

1882(明治15)年、大阪に日本硝子会社が設立したのを機に、大阪ではガラス産業が発達。明治期は、東京よりもガラス工場が多く、アジア市場への輸出なども大阪が主力を握っていた。

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